いろいろ計れる質量分析計
ハエで栄養について研究する話をお聞きした小坂元さんからご紹介いただいたのは、質量分析のスペシャリストの益田さんです。遺伝子とか細胞とかはこのシリーズでよく出てきますが、質量分析は初めてです。さてどんな研究でしょうか?
総合科学部でのタンパク質との出会い
タンパク質の研究との出会いはいつ頃ですか?
出身学部が広島大学の総合科学部というちょっとめずらしいところなんです。理系・文系の科目を半分ずつ履修できるという感じで、当時の学部長が「何かに特化した専門家を育てていくことはもちろん大事だけど、いろいろな専門家の橋渡しになるような人間も必要だ。」「いろいろな知り合いがいて、いろいろな方面にアンテナが張れるような、そういう人材を育成するのが大事だ。」というお話をされていた記憶があります。
いわゆる「学際」みたいなことをする学部なんですね。
生物系にはもともと興味があって大学受験のタイミングでは薬学部に憧れがあったんですけど、広島大学を調べているうちにその総合科学部というシステムがちょっとおもしろいなと思ったんです。ギュッと何かに決めずに、ちょっと広げた状態で前に進みたいなって。
学部長先生の狙い通りじゃないですか。
そこでいろいろ勉強してみた結果、やっぱり生命科学が一番自分の興味に近かったので、3年生のコース選択の時に生命科学コースを選びました。4年生で所属した研究室では、機能が未知の遺伝子の研究が行われていました。遺伝子の研究なんですが、遺伝子はタンパク質の設計図なので、実際の機能はタンパク質にしないとわからない。なので、そのタンパク質を合成して、実験動物に投与して表現型を見る、ということをチームプレーでやっていました。それがタンパク質を研究するはじめの一歩でした。
タンパク質合成あるある
DNAの配列はある程度簡単にわかるんですが、実際にタンパク質を作るとなるとなかなか難しくて、あるタンパク質を回収するのに苦戦していたんです。そのタンパク質は長さが80〜88アミノ酸残基タンパク質やペプチドはアミノ酸がつながってできているので、長さはアミノ酸の数で数える。DNAやRNAは塩基・塩基対だが、アミノ酸の場合は残基となる。あって、しかも結構、疎水性が高い疎水性が高いと、水の中で凝集してしまうので、合成が失敗したり、回収が難しかったりする。ジスルフィド結合アミノ酸のCys(システイン)の持つS(硫黄)が、他のCysのSと結合することで、アミノ酸配列中に橋がかかるように結合する(架橋)。これによりタンパク質の構造が一部規定される要素。ちなみに、コロナワクチンのターゲットであるSタンパクにも存在する。などの翻訳後修飾なんかもあって、精製が難しいタンパク質だったんですね。
タンパク発現あるあるですね。でもタンパク質が回収できないと、実験が始まらない……
そうなんです。大腸菌に発現させても収量が少なく、通常の化学合成では全長を合成することが難しくて、受託合成会社に依頼を出そうとしてみたりもしました。
結構な長さと量ですから、それなりのお値段になりそうですね。
見積もりは数百万円だったみたいです。でも一回きりではなく継続的に合成する必要があったので外注は諦めて、代わりにマイクロウェーブを使ったタンパク質合成機が導入されました。合成中に凝集しちゃうものをマイクロウェーブを当てて伸ばしながら合成を進めて、なんとか必要な量を得ました。
最終的に目的の表現型は確認できたんですか?
はい。過剰に投与すると脂肪が蓄積しやすくなるということが確認されました。
それはイヤなやつですね……。
BDRの質量分析な面々
質量分析に出会ったのはその頃ですか?
そうですね。ただ、当時は自分でやったわけではなくて、大学にあった共通機器室の質量分析計で技官さんにお願いしました。
本格的に質量分析に向き合い始めたのは理研に移ってきてからで、私を質量分析の道に引き入れてくださったのは升島努先生(故人)です。その縁もあって、今は質量分析と無細胞タンパク質合成をやっています。
BDRで質量分析をやっている人は他にいるんですか?
結構いらっしゃるんですよ。今は同じラボの所属になりましたが、神戸で質量分析を一手に引き受けていらっしゃる中川さんとは、以前は所属が神戸と大阪で離れていたこともあってあまり交流なかったんですけど、少し前のリトリート研究所の合宿のようなもの。ラボ間の情報共有を進め、新しいアイデアを生み出すことが一つの目的。で、お話してから情報交換をするようになりました。リトリート事務局が「似たような研究をやってるふたりだから、ホテルの部屋を同室にしよう」と画策したらしいと後で聞きました。
それはいい画策ですね。
同じ質量分析ではあるんですけど、対象や得意な領域が微妙に違うので、相談したり、時には分担したりということが、そこから始まりました。
あとは、高野さんも質量分析されてます。
え?高野さん?全然、ネホリハホリ聞けてないじゃん、オレ……。
高野さんは、低分子、特にアミノ酸などの代謝物のスペシャリストです。
質量分析はできることがいろいろありますもんねぇ。
そうですね。私たちはタンパク質やペプチドがメインですけど、低分子や代謝物、脂質も対象ですね。ゲノミクスやトランスクリプトミクスと同じように、プロテオミクス(タンパク質)、メタボロミクス(代謝物)、リピドミクス(脂質)なんて言い方もしますね。
質量分析の手法開発
質量分析は物質の同定に使われることが多いイメージなんですけど、一方で定量にも使われますよね。
私たちは、MS-QBiCという技術を持っていて、そのアップグレードを進めています。質量分析計で計測する前に、同じ配列のペプチドに安定同位体で標識した内部標準を使う方法です。たとえばC(炭素)の質量は普通は12ですけど、13の同位体を使うと、質量が1ずれます。これを既知の量入れておくと、測定対象のペプチドの量がわかるんです。
要はモノサシを混ぜ込んでおくイメージですね。でも安定同位体使うと高そうですね。
その問題を解決しているのが、MS-QBiCです。ベースになっているのは、PURE systemという無細胞タンパク質合成系です。これだと非常に少ない量のタンパク質を合成することができます。モノサシのコストは安定同位体が占めるので、量が少ないということは、直接的にコストが下がるということです。
質量分析は一度にたくさんのペプチドを計れるから、モノサシもたっくさんいるんじゃないですか?
そこも解決しています。MS-QBiCにはタグ配列というのがついているのですが、このタグ配列にバリエーションを持たせると、いろいろ混ぜて計測しても識別可能になります。スループットを上げることができるようになったので、今はその先をやっています。次の目標は、タンパク質の活性制御に重要なリン酸化などの翻訳後修飾を定量できるようにすることです。PURE systemに使われている酵素や遺伝暗号を改変することで、翻訳後修飾入りのペプチドも合成できるようにしたいんです。PURE systemは大腸菌の翻訳系を利用しているので、哺乳類などの翻訳系にある翻訳後修飾を施すことができないんですが、使われている酵素や遺伝暗号を改変することで、翻訳後修飾入りのペプチドも合成できるようにしたいと思っています。まだ開発途中なのですが、対応できると考えて改良に取り組んでいます。
それで、今やっているのは質量分析と無細胞タンパク質合成、ってことになるわけですね。
いろいろなテーマに関われることが楽しい
共同研究でタンパク質の同定や定量をすることも多いんですか?
そうですね。いろんなテーマの研究に関われるのが楽しいですね。質量分析じゃないと取れないデータというのもたくさんあるので。今回、紹介してもらった小坂元さんも共同研究相手です。
あ、そうなんですね。
私は質量分析を取り扱えますけど、結局は何が測りたいのか、というのが一番重要です。私一人では何も生まれないけど、いろんな研究者と話して、「それだったら質量分析が役立つかも」ということで測定する。結果が出たらもちろんハッピーですし、期待通りでなくてもそれはそれで新しい発見があったりします。何かテーマを絞って掘り下げるという感じではないかもしれませんが、多種多様な研究のお手伝いができることが嬉しいし楽しいです。周りにはいろんな興味を持った研究者がたくさんいるので、そういう人たちと議論して、データを取って、結果に対する感想などのフィードバックをもらって……ってやってると毎回毎回が新鮮で勉強になります。
研究者にもいろんなタイプがいてもいいですよね。
質量分析って感度もいいし、見られる情報がすごく多いです。ボタンを押せば結果が出てくるんでしょう?というふうに思われることもあったりするんですけど、研究目的に合ったデータがとれるようになるまでの最適化の作業が、知識と経験が必要な仕事だと思います。サンプルによって意外と前処理方法や測定条件の検討が複雑だったり、得られたデータをどのように解析するかが重要だったり、奥が深いんですよ。そういうところが、やりがいでもあっておもしろいですね。
質量分析計は真空系なので、メンテナンスも大変ですよね。
いつでも良いデータが取れるように、適切なタイミングで部品を洗浄または交換したり、クオリティーコントロールの測定をして異常がないか確認したりします。真空を維持するために基本的に電源は入れっぱなしで、計画停電なんかおおごとですし、台風も毎年ヒヤヒヤしてます。高真空を解除して引き直すのはかなり負荷がかかるので、むやみに電源を落としたくないのです。故障したら修理費は高額ですし、部品によっては数ヶ月待ちなんてもことも珍しくありません……。
手のかかる子ほどかわいい、という感じですね!
編集後記
「質量分析が大好きだー」という感じが全開だったので、そうお伝えしたところ、そんなつもりはないそうで。質量分析計は英語ではMass Spectrometerというので、業界では「マス」と呼ばれることが多いです。実際のインタビューでも、益田さんは「マス」と表現していますが、わかりにくいので、あえて質量分析計と表記しました。真空系のターボポンプとか壊れると悲しい気持ちになるのを思い出した……。